イギリス2017その40(カンタベリー編PART8)【カンタベリー大聖堂の歴史】

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KENです。

前回は、世界遺産の1つ聖マーティン教会(St Martin’s Church)から街最大の世界遺産であるカンタベリー大聖堂(Canterbury Cathedral)まで歩きました。

今回はカンタベリー大聖堂の歴史について少し説明します。

アイキャッチ画像は大聖堂内にて。歴史の講義をしてるように見えたので今回の記事とマッチしているかなと

この大聖堂の歴史に関連した重要な大司教が三人います。

1.聖アウグスティヌス(St Augustine)

聖アウグスティヌスは、596年にカンタベリーに派遣され、ここでのキリスト教の布教に貢献して、カンタベリー初の大司教(archbishop)となります。(その36も参照してみてください)

翌年597年にこの大聖堂が建てられます。

2.ランフランク(Lanfranc)

ランフランクは最初のノルマン人大司教で、ノルマン征服の1年後の1067年に火災で破壊された大聖堂を1070年~1077年に再建をしました。

彼は廃墟を取り除き、以前に修道院長として務めていたフランスのカーン(Caen)にあるサンテティエンヌ修道院(Abbaye aux Hommes)に密接に基づいたデザインに大聖堂を再建しました。

3.トマス・ベケット(Thomas Becket)・・・重要!

トマス・ベケットはこの大聖堂で暗殺されたことで有名です。

ベケットの友人であり上司でもあるヘンリー2世が、教会を独占するためにベケットを司教にしたのですが、司教に就任後はヘンリー2世の意に反して教会のために働いてしまいました。

1170年、怒ったヘンリー2世は「誰がわたしのためにこの激しい司祭を排除してくれるのだ?」と言ってしまい、それを聞いた4人の騎士が話を真に受けて、大聖堂でトーマスを殺害してしまいます。

ベケットの頭のてっぺんは丸々切り落とされ、脳が飛び散り、剣の先は、その衝撃で砕け、壁に突き刺さったそうです。

ヘンリー2世は、本気でベケットを殺してほしかったわけではないので後悔したそうです。

ベケットの死後、ヘンリー2世は布教活動に力を入れるのですが、暗殺事件がきっかけで息子に裏切られて、フランスのシノン城で絶望したまま亡くなってしまいました。

シノン城は2018年夏に訪れました。フランスの古城に興味がある方はコチラをどうぞ

 

 

このベケット暗殺は現在、殉教(自らの信仰のために死ぬこと)として知られるようになります。

その後は、ここを訪れると奇跡が起こると言われ、カンタベリーはヨーロッパで最も重要な巡礼地の1つになります。

偉大な聖人の遺体には力が宿ると言われるからです。聖人の骨や肺などのことを聖遺物と言います。

1220年には、ベケットの遺体がトリニティチャペル内の聖廟に安置されます。

癒しの場所とみなされたベケットの聖廟を訪れた巡礼者からの収入は、その後の大聖堂とそれに関連する建物の再建費用に充てられました。

この収入には、ベケット・殉教・または聖廟を描いた巡礼者バッジの売却による利益が含まれていました。(このへんの話が1388年に発行されたカンタベリー物語に描かれています。)

ただ、1538年にベケットの聖廟はヘンリー8世(Henry VIII)に破壊されてしまいます。

カンタベリーの世界遺産の1つアウグスティヌス修道院もヘンリー8世が取り潰していたので、コイツは悪の元凶ですね。その時の記事はコチラ

 

 

時は流れて

第二次世界大戦時に、大聖堂の図書館は破壊されてしまいました。

大聖堂自体は、屋根をパトロールしていた見回りが敵の爆撃機によって落とされた焼夷弾を払いのけたそうで、重大な損害を受けませんでした。

ちなみに、今述べた以外にも火災や地震のせいで度々壊れていたようです。

ちょっと話が長くなってしまったのですが、事前に知っておけばよりこの大聖堂が理解出来ると思います。

次回は、実際に大聖堂内を見学します。