KENです。
前回は、サン・マルタン運河(Canal Saint Martin)では食事をしたくなくなったので、近くの小公園で朝食にしました。
今回は、クリュニー美術館へ向かいます。
元古代ローマの公衆浴場だったところを美術館にしています。
公衆浴場から美術館に変わった経緯を紹介つつ、ついでに今まで訪れたローマ遺跡も紹介します。
まずは、サン・マルタン運河から近い地下鉄パリ東駅(Gare de l’Est)へ向かいます。
そこから、メトロ4号線でオデオン駅(Odéon)まで行き、10号線に乗り換えてクリュニー・ラ・ソルボンヌ(Cluny – La Sorbonne)で降ります。
クリュニー美術館入り口?
駅を出ると、すぐに見える屋敷のような建物がクリュニー美術館です。
とりあえず、美術館前にある公園を通って入口へ向かおうとします。
しかし、正面に扉はあるのですが入れそうにありません!
観光客の気配もないので、公園を少しウロウロしていると古代ローマ遺跡っぽいところがあります。
カルダリウム(Caldarium)
※網目が小さくてレンズが入りませんでした(;^ω^)
ここには、かつてローマの公衆浴場がありました。カルダリウムとは熱湯風呂のことです。
で、肝心の美術館の入り口についてですが・・・
次回紹介しまーす!
次回は、クリュニー美術館へ入って「貴婦人と一角獣」へ向かってダッシュします。
★★★
ここからは、公衆浴場の成り立ちやローマ遺跡に興味がある方だけお付き合いください
北のクリュニー公衆浴場(Les thermes du Nord, dits de Cluny,)
クリュニー美術館に含まれている公衆浴場は、1世紀末~2世紀の初めに造られた古いローマ時代の浴場です。
パリのカルチェラタンに位置しています。
現在の浴場跡は、
- サンジェルマン大通りからエコール通り
- サンミッシェル大通りから現在のクリュニー美術館まで
の広大な範囲の中の保存された一部分にすぎないそうです。
かつては、広さ数ヘクタールにわたり、東京ドームと同じくらいの大きさだったとのこと。
人々は、そこで体を洗ったり、ひと休みしたり、髪を切ったり、本を読んだりしました。
どうやら浴場に図書館があったようです。
いわゆる総合温泉施設で、レスリングの練習や様々な運動が出来る広大な場所まであったそうです。
今で言うスーパー銭湯?
公衆浴場は交流の場であり一大娯楽施設でもあったようです。
少し、フライングしてしまいますがクリュニー美術館内にはもう1つ風呂場があります。
フリジダリウム(Frigidarium)
水風呂のことです。
公衆浴場から美術館になるまで
紆余曲折があって最終的に美術館の一部になります。
フランク族(Francs)とアラマン族(Alamans)によるパリ侵略から始まって、ヴァイキング(Viking)による度重なるパリの包囲と火災、978年にオットー2世の包囲で街の南部が焼き払われました。
1340年、公衆浴場はクリュニー大修道院長であるピエール・ドゥ・シャトゥリュス( Pierre de Châtelus)に買われました。
クリュニーの神父たちは、浴場のそばに近くの学校に通う修道僧のための館(Hôtel de Cluny)を建てました。
浴場の部屋の一部は納屋になりました。
その後、1691年には厩舎(馬小屋)として使われたり、シャルトルやラバル行きの乗合馬車の車庫になったり、1781年以降は、ワイン業者が使っていました。
1810年以降、先ほど出てきたフリジダリウムの中に古代博物館を作ることを決め、公衆浴場の発掘をし始めます。
1819年、ルイ18世の内務大臣が26000リーブルの補償金でワイン業者のリース契約を解除させます。
1843年、町は公衆浴場を無料で国に引き渡し、クリュニー美術館に加わりました。
1862年、公衆浴場は、歴史的建造物に指定されました。
フランスに残っているローマ遺跡群
実は、パリにもう1カ所だけリュテス闘技場(Les Arènes de Lutèce)という遺跡があります。
2018年W杯の時に訪れました。
その日は、フランス戦だったのですが、子供達がラグビーボール蹴ってました🏉
サッカー興味ない人もいるよね⚽
正直、ローマ遺跡な感じはほとんど残っていませんでした。
また、フランスの地方都市である、アルル(Arles)には闘技場・劇場・浴場跡があります。
アルルの浴場跡
加えて、その近郊にある2重の水道橋であるポンデュガール(Pont du Gard)もローマ時代の遺跡として有名です。
ここまで付き合ってくださった方には厚い御礼申し上げます。